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|髙谷

四方田犬彦「貴種と転生」読書感想文

「八月七日と八日、私は病室で中上と会った。ほとんど話らしい話をしなかった。中上の眼が、痩せたせいか大きくてキラキラ光るのに気付き、その眼が私をずっと凝視しているのを感じながら、私はうなだれていた。最後に別れる際に、私は、「中上なあ、おれは君のホウバイだよ、ホウバイ、分かるか?」といった。彼は何度もうなずき、痩せてもなおがっしりした右手で私の手を強く握った。」

p168 柄谷行人 坂口安吾と中上健次「追悼・中上健次」

柄谷行人が、中上健次の死に際して綴った追悼文の一節である。両者は、デビュー当時からの付き合いがあり、批評家と小説家として相互に影響を与え合った盟友であり、中上の言葉で言うと「ホウバイ」であった。ホウバイは、「朋輩」と書く。コトバンクによると「同じ主人に仕えたり、同じ先生についたりしている仲間。また、同じくらいの身分・年齢の友。同輩。」の意とある。中上の出身地である和歌山県新宮の方言というわけでもないようだ。ただ、彼の小説において、朋輩は繰り返し登場するキーワードである。例えば、「奇蹟」には、

 「子どもの頃から腹と腹こすり合わせ尻ベベして育ったような、嬶よりも色よりも、いや丁か半かの博奕よりも一分も二分も濃い路地の朋輩」(p33)

とある。そのような血よりも濃い関係こそが彼の作品においての「ホウバイ」である。

後期において、中上はそのようなホウバイ、兄弟たちを題材にした小説群に取り組んでいくことになる。

ここから先は、四方田犬彦「貴種と転生」の第5章「彷徨する兄弟」を参照しつつ論を進めたい。

四方田はこの章を開始するにあたって、フロイトの「モーゼと一神教」に描かれた「マイナー共同体」を取り上げる。そこでフロイトは原兄弟について言っており、それは「権力の集中を見ることなく、相互依存と社会契約によって新しい共同体を形成していく」とし、「あらゆる結社、若者組、同胞連盟の背後には、カーストの廃棄とトーテムの選択をよしとする意志が見えないかたちで作用している」と述べる。ここでいうカーストとは財産の私有と主従の位階、トーテムは「特定の動植物との魔術的関係に由来する」ものであり、その二つは「隣接集団との差異の徴付けを文化(職業)に求めるか、自然(動植物)に求めるか」で異なると説明されている。そして「地の果て至上の時」以降の中上の作品には、「群、結社、マイナー集団の思考がその場で実現されている」とする。

そもそも、なぜ中上はマイナー集団の可能性を主題にしなければならなかったのか。それには現実の「路地」、つまりかれが小学生のころまで生まれ育った被差別部落地域が物理的に解体されていったことが大きな動機であった。その経緯は次のようにまとめられる。

「中上の故郷新宮市では1970年代半ばから 1980年代頭に掛けて日和山開発という再開発事業が実施された。これによって当然ながら町の風景は一変させられ、路地には一方では大手のスーパーが入り、他方では同和対策事業の一環として被差別部落民への公営住宅の供給が行なわれ、被差別部落は事実上消滅することになる。」

李 恵慶(2012)「中上健次の「路地」解体後の文学世界をめぐる試論~「韓国」というトポスの特権性と新たな解釈可能性へ~」

このあたりの事情や中上の捉え方については、彼のエッセイと寓話的な小説が交互に配置されている同時期の連作集「熊野集」に詳しいので興味のある方は手に取られたい。

四方田も「讃歌」における固有名の廃棄について、次のように説明している。

「従来の固有名の廃棄はみずからの過去の抹殺隠蔽に通じており、それには『地の果て 至上の時』において路地が完全に消滅して更地と化したことが決定的に預かっている。中上健次はかつて「路地」という言葉を人為的に考案し、それをもって新宮の被差別部落を表彰する記号としたが、こうした作業は作品のなかで秋幸や龍造といった登場人物たちが確固とした自己同一性をもち、みずからの物語に責任をもって生き、かつ殉じることと軌を一にしていた。」

注釈すると、秋幸と龍造は、「岬」「枯木灘」「地の果て至上の時」においてオイディプス的なモチーフとなった子と原父に与らえた名であり、作品群を一貫したシリーズたらしめる原動力となっていた。

秋幸や龍造、フサといった主人公たちを引き継いで登場するのが、中本の一統とよばれる血族である。「千年の愉楽」に登場した中本の一統はその誰もが「この世のものではないほどの美貌や男振り」を持ち、そして誰もが生を享楽し燃え尽きるように夭逝する。この中本も後ほどの作品では非特権化され解体されゆくのではあるが、中上の自死した兄である郁夫=イクオが、中本の一統でありその物語の中で死んでいった一人でしかないと語る(奇蹟)ことによって、中上は彼のサーガに非ー垂直な始原を設定したのである。

しかしその中本の特権性さえも中上は破棄する。タイチの死とともに、ついには路地さえも放棄した中上は、「異族」においては単なる固有名の羅列?のような登場人物の平板な物語にしかならない。

「今、路地が消滅した時、物語論的にみて一種の無重力が現前する。固有名を人物に結びつけている紐帯が外れ、故郷を失った者たちは自由に、いかにも恣意的な固有名を名乗りながら、動機も目的も定かでない戯れの場へと向かうことになる」

東は中上の遺作「異族」についてこう語った。

「今回新宮の街を高畑秀次さんたちに案内してもらって強く感じたのは、中上の小説とはリアリズムそそのものだったということです。(中略)中上の小説の力や固有性は、じつはそういう現実とのベタなつながりで支えられていた。だから路地がなくなったことで、中上の想像力は根っこ=現実から切り離されてしまった。その結果、彼は寓話的な枠組みと平板なキャラクターしか使えなくなってしまったのではないか。」(ユリイカ)

中上が血=路地=固有名を廃棄したのにはもう一つ理由があるように思われる。それは中上の天皇制との距離感だ。中上は自分の血も出生地も解体し尽くしたが、最後の物語としての天皇制を解体、回避できなかった。彼は路地の物語を秋幸三部作で見事に解体した。しかしそれは資本の脱領土化の運動にさきどられていた。彼は天皇制に挑んだ。しかしそれは資本の脱領土化の運動にさきどられていた。そして彼は死んだ。我々の問題は、それでもなお残滓のように生き続ける天皇制を、資本の脱領土化に対抗する形で解体することだ。だからもう一度血なのではないだろうか。中本のような、血をでっちあげることだ。

現代において、私たちは分断されている。それは階級的な問題でもあるが、それ以上に資本による過剰な差異のゲームの進行によって、私たちはそれぞれのクラスターの中に留まり、軽蔑しあい、分かり合えにくくなっている。それは社会的な課題でもあるが、と同時に「肉挽き機械(ミートグラインダー)」でもあるこの資本主義リアリズムが、私たち個人の内側をも切り刻み、分断し、そしてまた駆り立て、徴用している。それでもなお、この現在の風景だけがリアルではないと、訴え働きかけるのであれば、私たちにはまずもって運動体が必要だろう。その運動体は、かつての前衛党のように硬直=自己目的的でもなければ、マルチチュードのように脆弱=消費的であってもならないだろう。私たちには、流動的でありながら持続的な集団の倫理が必要だろう。それが理論でも、コンセプトでもなく、血であるのではないかと、私は思う。